>>455【長男の独白】「吉田清治」はこうして作られた 慰安婦「強制連行」の原点 ジャーナリスト、大高未貴※「吉田清治」長男が韓国・天安市の「謝罪碑」を「撤去」(書き換え)しました。この記事は、その顛末と慰安婦問題の原点「吉田清治」の実像をルポした『父の謝罪碑を撤去します 慰安婦問題の原点「吉田清治」長男の独白』(大高未貴著、産経新聞出版刊)の第2章「父・吉田清治」から抜粋しました。●懸賞マニアだった 三鷹から下関に戻って間もなくの頃だったか、清治氏はNHKが募集していた「ラジオと私」という懸賞に応募して、一等、一〇万円を獲得したという。当時の大金である。 「私が小学六年か中学一年頃かと思いますが、いい作文でした」 と長男は振り返る。 父(清治氏)が帰宅すると、ラジオから流れてくるはやりのコマーシャルソングに合わせ、息子二人が楽しそうに踊っていた。普段、父は子供に歌謡曲を聞かせないようにしていたから、母がラジオを消そうとすると、父はその楽しそうな様子に「そのままで、消さないでよい」と母に告げた−−。 そんな話だったという。 「テレビが買えない貧しい家庭を象徴するものがラジオでした。父は教育に関して厳格でしたので、家では歌謡曲など聞かせてもらえなかった。でもこの時は楽しそうな様子に思わず笑みがこぼれたという内容で、短い文章の中に幸せな家族の情景が浮かぶと高い評価を得たのです。父は福岡に行って表彰され、賞金をもらってきた。あの頃が吉田家が一番幸せだった時かもしれません」 この頃、清治氏は朝鮮人の経営するパン屋に勤めていた。 長男に下関の図書館でコピーした古い地図を見てもらうと、 「あっ! ここです。このパン屋さんに父は勤めていたのです」 となつかしそうに目を細めた。 「その経営者は戦前からの付き合いだったので、父の首を切るにも切れない状態だったそうです。父はパン屋の仕事になじめず、足手まといだったと思います。クリスマスなどは徹夜でケーキを焼いて配達したりと忙しかったようで、社長としては父よりも若手が欲しかったわけです。だからその社長はこれで辞めさせることができると喜んだ。一家はその賞金で引っ越すのですが、父はそのお金で三回も四回も引っ越せると言っていました」 懸賞に応募したのはこれだけではない。 「応募のほか、ラジオとかテレビのモニターもよくやっていました」 いまで言う投稿マニアだったのか。●「元動員部長・吉田清治」の始まり やがて清治氏はもう一つ、大きな懸賞で佳作となる。 昭和三八年、『週刊朝日』が「私の八月十五日」の手記を募集し、結果が同誌八月二三日号に掲載された。特選は一名、後に作家、エッセイストとして知られる近藤富枝である。 記事には他に入選五名、佳作一〇名の氏名が出ている。その佳作のひとりに吉田東司の名前がある。それは清治氏のことだった。(続く)http://www.sankei.com/premium/news/170617/prm1706170015-n1.htmlhttp://www.sankei.com/premium/news/170617/prm1706170015-n2.htmlhttp://www.sankei.com/premium/news/170617/prm1706170015-n3.html画像:吉田清治氏が建てた「謝罪碑」(関係者提供)
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【長男の独白】「吉田清治」はこうして作られた 慰安婦「強制連行」の原点 ジャーナリスト、大高未貴
※「吉田清治」長男が韓国・天安市の「謝罪碑」を「撤去」(書き換え)しました。この記事は、その顛末と慰安婦問題の原点「吉田清治」の実像をルポした『父の謝罪碑を撤去します 慰安婦問題の原点「吉田清治」長男の独白』(大高未貴著、産経新聞出版刊)の第2章「父・吉田清治」から抜粋しました。
●懸賞マニアだった
三鷹から下関に戻って間もなくの頃だったか、清治氏はNHKが募集していた「ラジオと私」という懸賞に応募して、一等、一〇万円を獲得したという。当時の大金である。
「私が小学六年か中学一年頃かと思いますが、いい作文でした」
と長男は振り返る。
父(清治氏)が帰宅すると、ラジオから流れてくるはやりのコマーシャルソングに合わせ、息子二人が楽しそうに踊っていた。普段、父は子供に歌謡曲を聞かせないようにしていたから、母がラジオを消そうとすると、父はその楽しそうな様子に「そのままで、消さないでよい」と母に告げた−−。
そんな話だったという。
「テレビが買えない貧しい家庭を象徴するものがラジオでした。父は教育に関して厳格でしたので、家では歌謡曲など聞かせてもらえなかった。でもこの時は楽しそうな様子に思わず笑みがこぼれたという内容で、短い文章の中に幸せな家族の情景が浮かぶと高い評価を得たのです。父は福岡に行って表彰され、賞金をもらってきた。あの頃が吉田家が一番幸せだった時かもしれません」
この頃、清治氏は朝鮮人の経営するパン屋に勤めていた。
長男に下関の図書館でコピーした古い地図を見てもらうと、
「あっ! ここです。このパン屋さんに父は勤めていたのです」
となつかしそうに目を細めた。
「その経営者は戦前からの付き合いだったので、父の首を切るにも切れない状態だったそうです。父はパン屋の仕事になじめず、足手まといだったと思います。クリスマスなどは徹夜でケーキを焼いて配達したりと忙しかったようで、社長としては父よりも若手が欲しかったわけです。だからその社長はこれで辞めさせることができると喜んだ。一家はその賞金で引っ越すのですが、父はそのお金で三回も四回も引っ越せると言っていました」
懸賞に応募したのはこれだけではない。
「応募のほか、ラジオとかテレビのモニターもよくやっていました」
いまで言う投稿マニアだったのか。
●「元動員部長・吉田清治」の始まり
やがて清治氏はもう一つ、大きな懸賞で佳作となる。
昭和三八年、『週刊朝日』が「私の八月十五日」の手記を募集し、結果が同誌八月二三日号に掲載された。特選は一名、後に作家、エッセイストとして知られる近藤富枝である。
記事には他に入選五名、佳作一〇名の氏名が出ている。その佳作のひとりに吉田東司の名前がある。それは清治氏のことだった。
(続く)
http://www.sankei.com/premium/news/170617/prm1706170015-n1.html
http://www.sankei.com/premium/news/170617/prm1706170015-n2.html
http://www.sankei.com/premium/news/170617/prm1706170015-n3.html
画像:吉田清治氏が建てた「謝罪碑」(関係者提供)