>>436【戦争】作戦から75年、インパールの悲劇後世へ 99歳元兵士「白骨街道」振り返る 「現場を知らない人が机の上で考えた作戦だった」油紙に包み、軍靴の底に隠して持って帰った佐藤哲雄さんの軍歴書。インパール作戦を指す日本の作戦名「『ウ』号作戦」の文字も見えるhttps://www.sankei.com/images/news/190621/lif1906210036-p2.jpg 先の大戦時に多大な犠牲者を出し、最も無謀な作戦といわれた「インパール作戦」から75年。インド北東部のインパールに22日、悲惨な戦闘の記憶を後世に伝える平和資料館が開館する。建設を発案した現地の観光協会から協力要請を受けた日本財団(東京)が、元兵士や遺族らに手記や写真などの提供を呼びかけ、200点近くが寄せられた。作戦に参加した数少ない生還者の元兵士、佐藤哲雄さん(99)=新潟県村上市=は激戦のただ中で携行した双眼鏡を寄贈。産経新聞の取材に応じ、極限の戦闘を振り返った。(大竹直樹)■深刻な食料不足 「ウ」号作戦−。第31師団に属する高田歩兵第58連隊の曹長だった佐藤哲雄さん(99)=新潟県村上市=の軍歴書に、インパール作戦を指す作戦名が記されていた。 戦犯を疑われる記録は焼却を命じられたが、「自分の記録だから」と、油紙に包んで靴の下に隠し日本に持ち帰ったという。 インパール作戦を含むビルマ(現ミャンマー)戦線は蒋介石の国民党政府への補給路の遮断、つまり米英など連合国軍が軍需品を支援する「援蒋(えんしょう)ルート」を断つことにあった。 第33師団は昭和19年3月、比較的補給も容易な東側のコースを北上。一方、第58連隊が属する第31師団は補給路を断つため、インパール北方の要衝、コヒマを攻略した。英軍の補給を断ちながらインパールを目指して進軍し、連合国軍の拠点だったインパールを南北から挟み撃ちする作戦だった。しかし第31師団は南下を阻まれ、第15師団とともに孤立。補給もなく深刻な食糧不足に陥った。 作戦を指揮した牟田口廉也(むたぐちれんや)司令官は、物資輸送と食料を兼ね、牛などの家畜を連れて行軍させたが、この「ジンギスカン作戦」は食料どころか足を引っ張るだけだった。「川では渡河(とか)船に乗った牛が暴れ出し、兵士もろとも川に落ちた」。川を渡った牛や羊はほとんどなく、結局食料として口にすることはなかった。 上官から「敵のものを取って食え」という指令が下されたが、英軍が撤退した宿舎にたどり着いても、残された食料にはガソリンがかけられていた。佐藤さんは「食料補給はないのが前提。缶詰の牛乳であれ水であれ、飲んだ者はみな腹を下した。現場を知らない人が机の上で考えた作戦だった」と振り返る。■師団長の「抗命」 現地では疑似紙幣である軍票で食料を調達することもできたが、戦況の悪化とともに通用しなくなり、熱が出れば、熱冷ましに効果があるキュウリと、万年筆などを交換した。(続く)
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【戦争】作戦から75年、インパールの悲劇後世へ 99歳元兵士「白骨街道」振り返る 「現場を知らない人が机の上で考えた作戦だった」
油紙に包み、軍靴の底に隠して持って帰った佐藤哲雄さんの軍歴書。インパール作戦を指す日本の作戦名「『ウ』号作戦」の文字も見える
https://www.sankei.com/images/news/190621/lif1906210036-p2.jpg
先の大戦時に多大な犠牲者を出し、最も無謀な作戦といわれた「インパール作戦」から75年。インド北東部のインパールに22日、悲惨な戦闘の記憶を後世に伝える平和資料館が開館する。建設を発案した現地の観光協会から協力要請を受けた日本財団(東京)が、元兵士や遺族らに手記や写真などの提供を呼びかけ、200点近くが寄せられた。作戦に参加した数少ない生還者の元兵士、佐藤哲雄さん(99)=新潟県村上市=は激戦のただ中で携行した双眼鏡を寄贈。産経新聞の取材に応じ、極限の戦闘を振り返った。(大竹直樹)
■深刻な食料不足
「ウ」号作戦−。第31師団に属する高田歩兵第58連隊の曹長だった佐藤哲雄さん(99)=新潟県村上市=の軍歴書に、インパール作戦を指す作戦名が記されていた。
戦犯を疑われる記録は焼却を命じられたが、「自分の記録だから」と、油紙に包んで靴の下に隠し日本に持ち帰ったという。
インパール作戦を含むビルマ(現ミャンマー)戦線は蒋介石の国民党政府への補給路の遮断、つまり米英など連合国軍が軍需品を支援する「援蒋(えんしょう)ルート」を断つことにあった。
第33師団は昭和19年3月、比較的補給も容易な東側のコースを北上。一方、第58連隊が属する第31師団は補給路を断つため、インパール北方の要衝、コヒマを攻略した。英軍の補給を断ちながらインパールを目指して進軍し、連合国軍の拠点だったインパールを南北から挟み撃ちする作戦だった。しかし第31師団は南下を阻まれ、第15師団とともに孤立。補給もなく深刻な食糧不足に陥った。
作戦を指揮した牟田口廉也(むたぐちれんや)司令官は、物資輸送と食料を兼ね、牛などの家畜を連れて行軍させたが、この「ジンギスカン作戦」は食料どころか足を引っ張るだけだった。「川では渡河(とか)船に乗った牛が暴れ出し、兵士もろとも川に落ちた」。川を渡った牛や羊はほとんどなく、結局食料として口にすることはなかった。
上官から「敵のものを取って食え」という指令が下されたが、英軍が撤退した宿舎にたどり着いても、残された食料にはガソリンがかけられていた。佐藤さんは「食料補給はないのが前提。缶詰の牛乳であれ水であれ、飲んだ者はみな腹を下した。現場を知らない人が机の上で考えた作戦だった」と振り返る。
■師団長の「抗命」
現地では疑似紙幣である軍票で食料を調達することもできたが、戦況の悪化とともに通用しなくなり、熱が出れば、熱冷ましに効果があるキュウリと、万年筆などを交換した。
(続く)